自然が「私たち」に
教えてくれたこと。
皆に故郷があるように、「私たち」にもある。
信州の諏訪。
産声を上げた場所は、元は味噌蔵の空間だった。
創業者の山崎久夫と9名の従業員の手によって
私たちは生まれた。
八ヶ岳や諏訪湖、高原地帯など、
雄大な自然溢れる諏訪で育った私たちは、
今でもこの土地を愛し、この土地に生きている。
諏訪は、私たちにさまざまなことを教えてくれた。
そのひとつ、人が成すべき自然と共生するあり方は、
今も受け継がれている。
遥か昔より、諏訪湖は人間の畏怖の念とともに
聖地として崇められていたと聞く。
理由はさまざまあるが、氷点下10℃程度の冷え込みが
数日続くと現れるという氷の山脈「御神渡り」は、
諏訪の七不思議の随一。
厳寒な環境の諏訪に暮らすことは容易ではなかっただろう。
しかし、先人は住処を変えることをしなかった。
むしろ、知恵を絞り、自然に抗うことなく、
生き方を見出していったように思える。
先人にとっては当たり前だった
地球に、自然に、その土地に感謝し、共生する生き方は、
現代においてもまた、当たり前でなければいけない。
その精神は、「私たち」のものづくりの指針にもなっている。
皆に故郷があるように、「私たち」にもある。
信州の諏訪。
産声を上げた場所は、元は味噌蔵の空間だった。
創業者の山崎久夫と9名の従業員の手によって
私たちは生まれた。
八ヶ岳や諏訪湖、高原地帯など、
雄大な自然溢れる諏訪で育った私たちは、
今でもこの土地を愛し、この土地に生きている。
諏訪は、私たちにさまざまなことを教えてくれた。
そのひとつ、人が成すべき自然と共生するあり方は、
今も受け継がれている。
遥か昔より、諏訪湖は人間の畏怖の念とともに
聖地として崇められていたと聞く。
理由はさまざまあるが、氷点下10℃程度の冷え込みが
数日続くと現れるという氷の山脈「御神渡り」は、
諏訪の七不思議の随一。
厳寒な環境の諏訪に暮らすことは容易ではなかっただろう。
しかし、先人は住処を変えることをしなかった。
むしろ、知恵を絞り、自然に抗うことなく、
生き方を見出していったように思える。
先人にとっては当たり前だった
地球に、自然に、その土地に感謝し、共生する生き方は、
現代においてもまた、当たり前でなければいけない。
その精神は、「私たち」のものづくりの指針にもなっている。
Article
原点は長野県、諏訪湖の畔。自然とともに生きるものづくり。
1942年、
時計の部品組み立てから始まった。
日本アルプスを抱え、雄大な景観と共に多くの野生動物が生息する自然豊かな長野県。その中にある信州一大きな湖・諏訪湖の畔にて、セイコーエプソン株式会社(以下エプソン)の前身となる「有限会社大和工業」が1942年5月18日に誕生しました。
諏訪の人々は、古来より、湖に、里に、山に、そして、神と崇める自然とともに暮らしてきました。中でも、諏訪湖は、自然の厳しさと美しさの象徴であり、この土地の聖地。豊かな恵みをもたらしてくれる湖は、人々の生産の場でもありました。漁業は縄文時代以来行われ、天然氷の切り出しや、湖面を水路として、冬は氷上を運送路として利用してきました。歴史を遡っても、諏訪湖は、常に人の暮らしを支えてきたのです。
一方、大地に目をやれば、厳寒な冬もまた諏訪の特徴。ゆえに、農業には適していませんでしたが、この土地を活かした狩猟や山の幸を採ることで、暮らしの営みは形成されたといいます。
諏訪に生きる人は、諏訪の環境を大事にしつつ、ものごとを開拓し、諏訪とともに生きたことがうかがえます。
現在(2022年3月31日時点)のエプソングループは、従業員約7万7千人。売上収益は1兆円を超える規模となりましたが、その始まりは小さな味噌蔵だった場所を改造した工場でした。創業当時に手がけていたものは、「輪振り」と呼ばれる時計部品の組み立てであり、この事実は、あまり知られていません。
諏訪を「東洋のスイス」に。
精密工業に適していると信じて。
創業者の山崎久夫は、従来、盛んだった生糸産業が衰退していく中、諏訪の地域に新たな産業を興し、盛り立て、地域の人々の生活に彩りを取り戻すことを切に願い行動を起こします。15歳で服部時計店に丁稚(でっち)奉公し、帰郷後に家業の「山崎屋時計店」を継いだ山崎は、宮坂伊兵衛諏訪市長らとともに、当時の「第二精工舎」(現「セイコーインスツル」)の専務、服部正次のもとを訪ねます。そこでは、夏も湿度が低く気象条件がスイスに類似している諏訪が、いかに精密工業に適しているかを説き、出資を受けることに成功します。諏訪を「東洋のスイス」にという大きな志と共に時計の部品の組み立てから事業を開始。その時、従業員は、わずか9名でした。
誠実努力。今なお語り継がれる
創業者・山崎久夫の想い。
山崎の諏訪に時計工業を根付かせたいという想いにより、戦後、間もない物の無い中で、時計を作るための部品を集めました。足りないものは全て自分たちで作りながら、部品一式を揃え、1946年1月21日から組み立て作業に入ります。夜通し働き翌22日、ようやく4つの時計が完成。
しかし、動いた時計は4つのうち2つでした。ただ、この試行錯誤による完成が、私たちの第一歩であり、後に続くものづくりの礎となっていきます。
この2つを持って「先宮神社」を詣でたあと、完成祝いの席で山崎は、ある決意を発表します。
「この山崎、体を投げ出してやる覚悟である。全員一丸となって協力し、必ずこの地に時計工業を植え付けて欲しい」。
涙ながらにした挨拶は、今でも語り継がれています。後年、そんな山崎を会長の服部正次は、ひと言「誠実努力のひと」と表現したのです。この姿勢は、現在のエプソンの社風として浸透しています。